雑な記

ホントそれ

誠実とは ~映画「聲の形」の感想~

 

※この記事はネタバレを含みます。以下、その点にご留意してお読みください。

 
 

 

 
どうも、こんばんは。
タイトルにもあるように、先日、映画「聲の形」を観てきました。
思うところが多々ある作品で、その感想を書きたくて仕方なくなり、わざわざブログを開いちゃいました。
 
とはいってもなんとなくブログというものに手を付けてみたいと思っていたので、始めるにはいいきっかけだったかもしれません。
この記事は映画のガチ感想文となってしまいましたが、普段は不定期に日常やアニメについてなど、意識が続く限り更新したいと思います。
 
 
それでは以下に感想を書き連ねていきます。
 
 
正直に書きます。 
まずこの作品ですが、見応えもあり、作品としてもとても良くまとまっており、かなり良作だと個人的には思います。蟹の形とか言ってる場合ではなかったと反省しています。本当にすいませんでした。
 
さてそこで観た方々に質問です。
感動しましたか?泣けましたか?胸糞悪くなりましたか?しんどかったですか?
 
自分はかなりしんどかったのですが、正直なところ泣けませんでした。
 
なんでだろう、と考えた結果、感情移入の仕方が人によって異なるのではないか、という結論に至りました。この映画を観て素直に泣ける人は、それまで"当事者"になったことがない、或いは"当事者"意識が薄い人なんじゃないか、そう思えてならないのです。
 
これはどういうことか。  
 
この作品は原作の漫画があるということもあり、話の大枠は程々知れていると思いますが、聴覚障害者に対するいじめを発端にストーリーが進んでいきます。
 
聴覚障害者というテーマも、タイトルである「聲の形」に関わる重要な要素ですが、自分はいじめというテーマがさらに重要な要素に思われました。
 
先ほどの当事者というのは、つまりいじめる-いじめられるという関係の、どちらか或いはどちらにもついたことのある人だということです。
自分も小学校から中学校のころ、被害者側にも加害者側にもなったことがあるのを認めざるを得ません。そのため、この映画は正直現実を突きつけてくるような作品で、全く泣けず、ただ責められているような感覚になりました。
 
特にそう感じたのは、将也が高校生になった後、しばらくして硝子等と遊園地で遊んでいるシーンです。
将也は中学生の時のいじめの被害者としての体験からか、高校生になってからは自分を責めて罪を背負うような考え方をしています。
それでもなんとか友達と呼べるような関係の人と普通に遊ぶことができており、こんなに幸せでいいのか、という感想を漏らします。
 
この話を観ている側としては、普通なら、それとこれとは関係ないじゃん!幸せ感じてもええやん!と言いたくなるってだけのシーンなんだと思うのですが、この呟きを聞いた時、自分に問われているような気がしてドキッとしました。
 
似たような描写はこれに留まらず、将也が葛藤する度にこちらにも問いが投げかけられるような、神経を磨り減らされるシーンが多々ありました。
 
話としては一応ハッピーエンドの形をしていますが、全くすっきりしない、しんどい映画だったというのが観終わった直後の正直な感覚でした
 
と、まぁ散々と言ったものの、京アニの流石の作画、声優陣の迫真の演技には天晴れとしか言えません。
特に硝子役の早見沙織さんなんかは本当に努力されたのでしょう、耳の聞こえない感覚は想像するしかありませんからね。
 
さて、このようにメッセージ性の強い作品「聲の形」ですが、本作が伝えたかったこととは何なのでしょうか。
これには人それぞれの回答があって然るべきでしょうが、自分は次のように考えます。
 
まず、繰り返しになりますが、この物語では聴覚障害者というテーマは重要であるにしても本筋ではないと思うのです。
この物語の主人公はあくまでも将也、そしてその心の動きと行動が本筋なのです。そしてその心の動き、行動は、作品を観る側の人間一人一人に問いかけてきます。 
事実、贖罪の意識に駆られる将也の行動はどこまでも誠実です。(いじめをしていた小学生の時でさえ、自分の感覚に正直という点においては自分に対して誠実であるとさえ言えるかもしれません。)
いじめをしていたことを自覚しているところ、それを自分の罪だと考えているところ、自分の時間を割いてバイトでお金を貯め補聴器代を母に返そうとするところや、いじめをした相手に謝ってから死のうと考えていたところなど、どこまでも誠実じゃないですか。書いてて泣きそうになってきた、誠実の紋章をあげたい。
 
そんな誠実な人間だから、結果としてはハッピーエンドで終わることができた、と結論付けることすらできるでしょう。   
 
自分はこの、誠実に生きるということ、これが伝えたかった本当のテーマなんじゃないか、と思えてなりません。
 
試しに我が身を翻ってみるとどうでしょう、なんと自己欺瞞的に生活していることか。
いじめをされていたことは忘れることはないにしても、いじめた側に回ったことを思い出すのには時間を要するのです。都合の悪いことは忘れてしまおう、今の生活を楽しもうとしているのです。なんと卑怯で浅ましいことか!
こんなに自分の浅ましさを直視するような作品と今まで出会ってきませんでした。
 
自分の高校生時代はとっくに過ぎ去っており、将也みたいに若くもありません。
人生いつでも再スタートできるとは言いますが、失われた時間はもう2度と手に入らないし、手を加えることもできません。
 
これからの人生で、自分はどれだけ自分に欺瞞的にならずに、誠実になれるのでしょうか。将也みたいになれる自信はこれっぽっちもありませんが、過去の苦い思い出を忘れず、そのままで生きていかなければならない。そう感じました。
せめて自分には、誠実でいたいものです。
 
感想というかエッセーというか、おかしな文体になってしまいましたが、とにかく自分の思うところは以上となります。ただ、お恥ずかしいことに原作の方はまだ読了しておらず、あくまでも映画の感想となることをご容赦していただきたい所存であります。。原作も読まなきゃ。。
 
長い文章にお付き合いいただき、ありがとうございました。
 
追伸
 
序盤に挿入歌としてThe WhoのMy generationが使われていました。この曲は1960年代に世に出されましたが、60年代のイギリスでは、モッズカルチャーとロッカーズカルチャーがせめぎ合い、コンフリクト状態に陥っていたそうです。この状況を上の世代が批判していたのですが、その批判に若者たちが応える、といった形で、この時代を象徴する歌となったそうです。(映画視聴後調べ)
そんな歌が聲の形に使われていたとは知らず、何故だろうと思っていたのですが、少し考えれば納得しました。
この作品は、曲中で何度もリフレインされているように、Talkin' 'bout my generation、「僕らの世代のことを言っている」のです。 
こんな物語は、今、この僕らの時代に起きていることなんだ、そう訴えているのではないでしょうか。
 
こう受け取ると益々、視聴する側に投げかけるような演出となっているように思えますね
 
ちなみに作品全体としてはアンビエントな音楽中心で心地よかったです。
あー、もっかい観に行くか〜〜〜